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たとえば、「アイ」について  [つきのこども/あぶく。] より


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ーーすべての善き翻訳は「創作」である。 (萩原朔太郎「詩の翻訳について」より)
 
 

 
 
共有結晶ではBL短歌の創作と合わせて既存の短歌の「BL読み」を行っている。
BLの相聞歌として解釈したら萌える、とメンバーから推薦された短歌は「BL読みしたい短歌」として創刊号から紹介されており、二号ではそうした短歌からイメージを膨らませた解凍小説も掲載している。
これらの試みには、時折疑問が示される。いや、BLとして読みたいなら勝手にそうすればいいじゃないか。そもそも短歌の登場人物の性別なんて私はそこまで意識してない、みんな中性的に捉えている。明らかに男女の相聞歌をBLとして読むのは歪んだ解釈ではないのか。
 
「これは男女の相聞歌として作られた短歌です」「これは家族の情愛を描こうとして作られた短歌です」「だからそう思って読んでください」
どんな歌集を開いても、こんな注意書きはどこにも書かれてはいないだろう(国語の教科書には結構書いてある気もするが、ここでは議論しない)。BL読みしたいなら勝手にすればいいじゃないか、だれも禁止していないという指摘はその意味では間違っていない。
短歌の登場人物を男として読んでも女として読んでも構わないと思うなら同じ短歌について、毎日設定を変えて読んだっていい筈だ。主人公はある日は男であり、別の日は女である。別の日には異性装をする人間として読んでもいいし、両性具有の人ならぬ存在でもいいかもしれない。主人公が思いを寄せる相手も同様だ。が、そうしたやり方は恐らく多数派ではない。私もしない。面倒くさいからだ。
ひとりで歌集を読むときに、作者名を伏せたまま互いの短歌について評しあうときに、歌から浮かび上がる登場人物たちのイメージは共有され、蓄積されていく。
浮かび上がるイメージは、しかし本当にテキスト「だけ」から生じたものなのだろうか。男として読んでも女として読んでもいいと言いながら、作品を読む目線には一定の偏りが存在してはいないか。「明らかに男女の相聞歌」なんて、本当にあるのだろうか。テキストの持つ全ての可能性を私たちは本当に検証しているのか。
それは日本語の、あるいは短歌特有の問題なのだろうか。
 
 

 
 
「I want to hold your hand」をBeatlesが発表したのは1963年、デビューから5枚目のオリジナルシングルだった。ビルボード誌では1位を獲得、前作の「She loves you」と合わせ人気バンドBeatlesとしての地位を確立させた。

The Beatles – I Want To Hold Your Hand – Fantastic LIVE Version!!!!
 
ちなみに歌詞はこちら
 
それから45年後、2007年に作成された映画「Across The Universe」は全編にBeatlesの楽曲を利用したミュージカル映画だ。監督はジュリー・テイモア。
 
「I want to hold your hand」は映画では、主人公の恋人ルーシーと同じチアリーディングチームに所属する女性・プルーデンスが歌う。

Across the Universe – I Wanna Hold Your Hand – T.V. Carpio
 
ヒロインのチームメイトとして登場する彼女について、映画では詳細な設定は明かされない。日本語版ではそもそも吹き替え俳優が当てられてさえいないようだ。彼女の性自認や性指向について、だから映画で語られる場面はない。けれどプルーデンスがルーシーを好きなのだ(恐らくは恋愛感情で)ということはこの歌だけで観客にも伝わる。
 
余談だがジュリー・テイモアは2010年の監督作品「テンペスト」ではシェイクスピアの描いた孤島の魔術師プロスぺローを女性のプロスぺラに変えている。
 
 
洋楽CDについてくる歌詞カードはどう見てもたまに大間違いをやらかしているし、好きなバンドの格好よさを全然伝えてないと思うから、自前で翻訳をするのが学生時代からの趣味だ。関係代名詞の概念は教科書からではなく歌詞翻訳の中で学習した。とはいえ英語力は未だ心許ないレベルである。
 
何が切っ掛けでかは覚えていないが、一時期、訳詩の際にIとyouの関係を思いつく限りのバリエーションでどこまで訳せるか、毎回試していたことがあった。例えば訳したい歌詞が男性ボーカルの曲だったとして、この歌詞のIとyouは男と女でないと本当に歌詞全体の文意が通らないのか。逆で訳すことは可能か。男と男は、あるいは女と女なら。老人や子どもなら、youが複数形である可能性は。いやそもそも、人間ではない可能性は? その場合、どんな訳が適切か? 翻訳文の何がどう変わるのか? あり得る全ての訳を包括するような表現はあるか? ……そんなことを毎回考えていた。
 
男性ボーカルの歌詞だからこの歌詞の「I」は男性だ。
 
仮にそう考えたとしても、そのIを「ぼく」とするか「俺」とするか「私」とするかで印象はかなり違う。いや私、とするなら女性と読むことだって可能じゃないか……多分、そんな発想だったのだと思う。前後の文脈に性別を示すものがない以上、訳文作成の際に最初からそれを決めてかかるのは止めた方がいいと塾講師に言われたことや、失恋ソングだと思っていた「Yesterday」はレノンが母親を亡くした時の歌だと知った時の衝撃なども影響を与えているかも知れない。そう、ラブソングが常に恋愛の歌とは限らない。
 
「Across The Universe」でプルーデンスの歌を見た時、びっくりすると同時に我が意を得たような嬉しさがあった。映画で歌われる歌詞は一言一句、何もアレンジされていなかった。I とyouだけの英語の世界では、こんなことだって出来る(厳密には実はこれは間違いなのだが、それは後述する)。
 
 
Beatlesの初期のナンバーを訳す時、大抵の人がIとyouをぼくときみ、と訳すのではないかと思う。今となってはレトロなイメージのある60年代のボーイミーツガールの歌。作詞・作曲を担当したBeatlesの来歴を踏まえた場合、その選択は誤ってはいない。むしろ「正解」だろう。
 
でも多分、映画でプルーデンスの歌についた字幕は歌い手が女性であることを念頭に置いた文体になっていたのではないかと思う。Iとyouはわたしとあなた、になったのではないか(そもそもIを訳出するかという話は別として)。英語の歌詞は何も変わっていないのに。
 
日本語を含めた東アジアの言語は英語のI、あるいはyouにあたる語、つまり人称代名詞に状況や関係性に応じた多くのバリエーションがあるとよく言われる。歌詞翻訳についていえば歌い手やアレンジに合わせて、よりひだの細かい表現が出来る、という言い方も出来るだろう。
 
けれど翻訳のあらゆるバリエーションを試していた当時の私が思ったのは、言葉のバリエーションは同時に分断でもあるのではないかということだった。主語の選択は文体や語彙の選択にも少なからず影響を与える。多くのバリエーションがあるからこそ、男でも女でも老人でも幼児でも、いやそのどれでもない存在でさえ使える「I」のような主語を、文体を、日本語では持つことが難しいのではないか。
 
一般的にはこうした場合、主語が「私」のですます調が一番フラットにはなるだろう。けれど自分が今やっているのは歌詞翻訳で、旋律もリズムもある代物だ。旋律に完全に乗せることは不可能でも、それなりに響きの良い言葉で……そう思えば主語が「私」のですます調だけでは到底足りず、ハードルはさらに高くなる。
 
でも本当に、この歌詞のIとyouは男と女でないとだめなのか?
 
この歌詞の女性は本当に、女らしい言葉づかいでないとだめなのか?
 
そもそも私はこの曲や歌詞から男と女のイメージを受け取ったのか? ……そうは思えなかった。
 
当時の私にとって、英語のテキストは日本語のそれより中性的に見えた。その中性的な言葉で表される世界の可能性をどうやったら日本語に持ってこれるのか、いや創れるのか。そんなことを考えていた。
 

 
本当は、英語のテキストも性別から離れたものではない。言うまでも無く。
 
heやsheが出てくればそこで登場人物の性別は確定される(とはいえheをsheに歌い替える、あるいはその逆さえすれば描かれる世界は反転、あるいは同性同士の関係に変化するし、歌い替えは比較的容易なので、カバーの際にはそうする場合も結構多い印象がある。いわゆる男言葉、女言葉が無いのでそこは日本語より行き来が自在だ)。老若男女、あらゆる組み合わせで歌えるIとyouだけの歌はそう思って探すとなかなか無い。冒頭にあげた「I want to hold your hand」には「I wanna be your men」というフレーズもある。
 
更にいえばやはり、もともと歌っていた人間の性別等のイメージは強い。プルーデンスの歌に衝撃を受けたのは私だけでは無かったようで、youtubeの動画には今も賛否両論のコメントが多数残っている。日本語より中性的とかつて私が思っていた英語圏からも否定的なコメントはそれなりにある。一方エリック・クラプトンの「Tears in Heaven」の歌詞(こちら)には性別を示す表現が無い。だが、聞き慣れた彼の声とこの曲にまつわるエピソードがあまりに強烈なので、当初私はそれに気付けなかった。
 
 
 
作詞者や作曲家、歌い手の背景を除き、テキストだけを見てどこまで解釈を拡大することが可能か、丹念に検分すること。その限界を根拠に基づき厳密に見定めること。その上で改めて作詞者や作曲家、歌い手の背景を突合せ、Iやyouにどんな訳語を当て、どんな文体を取るか改めて選択すること。
 
選択したということは選択されなかった表現、自分の力不足でこぼれ落ちた表現があったことを自覚し、覚えておくということだ。そうした手続を経て「ぼくときみ」を訳語として選択することは、無批判にそれを選択するのとはやはり違うだろうと思う。例えば他の単語の訳や、文末の語尾の処理にそれは現れるかもしれない。
 
あなたの思う「I」とわたしの思う「I」が本当は違うのではないかと考えてみること。
 
Beatlesの歌にもプルーデンスの歌にも合う歌詞の翻訳はどんなものか、考えてみること。
 
叶うならばその先に新しい表現を創れたらと、英語のテキストに向き合う度に思っている。
 
 
 
言葉は常に、何かの翻訳だ。
 
だからこれは決して日本語と英語についてだけの話ではない。他の言語同士でも十分あり得る話だろう。
 
日本語と日本語の間であっても。
 
 
追記:
 
ちなみに「Across the Universe」は「I want to hold your hand」以外も曲、映像共に素敵なアレンジが多いのでお勧め。 とりあえずインパクトの強かったものを一つだけあげておく。

Across the Universe – I want you (she’s so heavy) HQ
 
映画の中でこの曲の「I」は、人ではない。
 
ビートルズの60年代はベトナム戦争の時代でもある。

穂崎円 @golden_wheat
つきのこども/あぶく。
http://mondekind.hatenablog.com/