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【短歌解凍】つつがなく日々


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 一人っ子だったからひとり遊びには慣れているんだ、ということだった。
 聞いたところによるとかれの家はとても広くて、一つ一つすべての部屋を開けて回るのに幾日もかかったと言う。横に平べったい、田舎の家で、天井の方は薄暗く、角のところははっきりと見えない。家にはたくさんの人がいたが、かれと血がつながっているのは祖父と祖母と姉の三人だけで、大部分は目に見えなかった。
 ずっと年上の姉は、かれのことはかまわなかったし、すぐに外の学校へやられてしまった(ひとりっこ、というのはそのせいだった)。幼いかれの遊び相手は家だった。いくつもいくつもある部屋をひとつずつ開けては、そこが宝の部屋か、一睨みで人を石に変える恐ろしい怪物の棲み処なのだというふりをする。開けても開けても部屋は尽きなかった。その寂しい遊びをした夜、かれはふすまを開けっ放しにしていたのを祖母からこっぴどく叱られた。
 かれは就学前から一人部屋を与えられていた。部屋は真四角で、机と何冊かの本があった。おもちゃはあんまりなかった。姉のお下がりか、あるいは忘れていってしまった人形が片隅においてある。かれは姉の人形を腕にかかえて部屋のふすまを数センチだけ開ける。その向こうにも、同じような部屋がある。誰も使っていないから、暗い空気が畳の上にまで沈殿していたけれど、ほこり一つなく奇麗に片付いている。外で遊ぶことはなかった。どのふすまを開けても、同じような畳敷の部屋があって、けっして外へたどり着けなかったからだ。庭にりっぱな桜の木があったはずだから、もっとちゃんと、見ればよかった。もったいないことをしたとかれは今になって言う。
 そういう子ども時代を過ごしたので、手を伸ばせば互いに届くような家に暮らしている今も、かれは時々、姉の人形をかかえた子どもへ戻ってしまう。
 今日のあそび相手は大判の本だった。絵本のようだったが、画用紙のような素材で出来ていて、ページはどれも真っ白だった。表面に、ごく小さな点で、どこかの太陽系のようなニューロンの略図のような、あるいは単純に、意味をもたない幾何学の模様が浮き出ている。
 あわれなはなのようであるよ。
 かれの肩越しに本を覗き込んで、思い出したのは太陽系でもニューロンでもなく、母親の持っていたティーセットだった。白一色の地に、ぽちぽちと点々が浮き出ていて、レース編みの花もようを描いている。友人たちと行った熱海旅行で買ったのだという。蚤の市で売っていた安物だったが母親のお気に入りで、めったに使うことができなかった。ほんとうは二組あったティーカップは一つしかない。ぼくが割ったのだ。ぼくは覚えていないけれど母がそう言っていた。ソーサーは小皿に再利用されてケーキやポテトサラダや焼いた鶏肉をのせた。
 就職が決まると同時に、ぼくは母を捨て、きょうだいを捨て、かれをあの家から連れ出した。
 ぼくは手を伸ばして、かれの広げている本へ触れる。ページの右上に、小さな点を並べて大きな円が描かれてあって、そこから点線が左下に向かって、途中でかくかくと折れ曲がりながらのびている。点線には等間隔に、少し大きな○が配置されていて、その隣に、小さなぽちぽちが整列している。上から下までまっすぐなぞると、指の腹にかすかにぽちぽちがひっかかる。こんな風に邪魔をされても、かれはちっとも怒らない。一人遊びの世界に、深く深く没入しているからだ。かれの胸に抱える姉の人形、布に青い染料でまつ毛のある目を描いたぬいぐるみは古びて微動だにしない。
 
 
 電子音のアマリリス。
「ごはん炊けた?」
 かれが本を隣に置いて顔をあげる。「ご飯だけ炊けた」つまり夕食はまだだと言うとかれはつまらなさそうな顔をした。
「何読んでたんだ」
「知り合いにもらった」
 かれが読んでいた本の表紙には、『地下鉄路線触図』と書かれている。視覚障害者用の、点字路線図らしい。これを眺めてにやにやしていたのだ。
「あんま変なものふやすな」
「うん」
と言うくせに、かれはどんどんこういうものを増やすから、ただでさえ狭い家がますます狭くなっていく。古い本や外国語の手記、馬に似た生き物の小さな頭蓋骨。木枠を開けるとどこにも繋がらない歯車やばねが詰まっているインチキの機械。その他たくさんの不要のもの。触図を退けて、他のものも端へ寄せて、小さな机を出した。かれの集めた不要のものたちの中に、ぼくたち二人はすっぽりおさまってしまう。早く食べたかったから、夕食は簡単なものにした。
「そういえば、桜」
 炊きたてのご飯の上にこんぶの佃煮をのっけながらかれが言った。「もう散ったよ」「えっ、早くない?」「毎年こんなもんだ」ぼくは目玉焼きの黄身に箸をいれる。表面の膜が破れて、黄色というよりはオレンジの、すこんとあかるい色が、沈黙したまま白身の上を流れる。
「もったいない」
 かれは黄身を最後までのこす。そして一息に食べるのが好きなのだ。
「もったいない」
ともう一度いうのは桜を見逃したことだった。せっかくにぎやかに咲いていたのに、今年も見逃してしまったのがもったいないと言う。花なんていつでも咲いているだろうと言うと、あの同じのが一気に咲くのがいいのだと言う。
「知ってるか、日本のソメイヨシノは全部一本の木から株分けしたものなんだ。植えた時期もほぼ一緒だから、あるとき寿命が来て、一斉に枯れるんだ。そうなるまえに、見ておきたいし、そうなった後も、見てみたいよ」
「いつまで生きる気なんだよ」
「そりゃ、いつまでも。なあ、ソメイヨシノが枯れたら弁当作ろう。そんで見に行こう」
 黄身のまわりの白身を箸でちぎりながら、そんなことを言う。ぼくは、覚えてるかどうかわかんないけど、覚えてたら、とはなはだ怪しい約束をする。かれはもう桜への興味はなくしたようで、「手羽先が食べたい」と呟いている。それもどうせ明日には忘れて別のものを作ってるんだろう。明日のメニューはなんだろ。西京焼とかかな。
 ぼくらが箸を動かしている間にも、地下鉄の触図はずぶずぶと不要なものに埋もれていく。姉の人形はもういない。はじめからここには僕らしかいない。
 かれがこの狭い家の奥にたれこめている間に、今年も桜の季節は過ぎた。
 

「はなびら」と点字をなぞる ああ、これは桜の可能性が大きい

  
 
正井 @kelmscott_masai